抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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安政元年六月四日(1854年7月9日)に発生した伊賀上野地震はマグニチュードが7を超える直下型地震で,三重県上野市付近で死者600名余の被害を生じた。また,昭和28年(1953)8月15日に,東近畿大水害または,南山城水害と呼ばれる大水害が発生した。本稿ではこれらの被害分布の特徴について述べる。伊賀上野地震は木津川断層帯で発生したため,上野市北方で西南西-東北東方向に横ずれ断層が発生した。また,伊賀上野城内でも大きな被害が生じた。島ケ原村史(1983)によれば,木津川断層帯の崖下に居住していた住民が崩壊や土石流によって多くの家屋が倒壊し,圧死したものが多かった。また,伊賀上野盆地側が沈降したため,新湖(天然ダム)が形成された。木津川の岩倉峡は笠置峡では岩石崩壊により河道が閉塞された。伊賀上野市では1953年8月15日午前0時を過ぎた頃から激しい豪雨となり,1時間最大雨量81mm,総雨量は287mmに達した(上野市史・自然偏,2004)。この豪雨により,木津川断層帯の急斜面地帯である上野市西山で土石流が頻発し,死者・行方不明14名の被害が出た。地震直撃による土砂災害と数十年後に引き起こされた豪雨による土砂災害との関係はまだ解明されていない。