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J-GLOBAL ID:201602242873943993   整理番号:16A0926127

1965年のルイセンコの失脚後のロシアにおける生物学教育の正常化のための初期の運動

The Early Movement for Normalizing Biology Education in Russia after Lysenko’s Downfall in 1965
著者 (1件):
資料名:
巻: 26  号:ページ: 3-14  発行年: 2016年08月18日 
JST資料番号: L7292A  ISSN: 0285-4821  資料種別: 逐次刊行物 (A)
記事区分: 解説  発行国: 日本 (JPN)  言語: 英語 (EN)
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トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコによる生物科学および農業科学の独占は,Ail-Union Academy of Agricultural Sciencesの総会においてメンデル・モルガン遺伝学を排斥した1948年8月に始まり,ルイセンコが遺伝学研究所の所長の職を失う1965年まで続いた。この時期のソビエトの生物科学,特に遺伝学は,今日では20世紀の科学の最も悪名高い出来事の1つとみなされている失敗である研究および教育の両面における劣悪な状況に苦しんでいた。科学の歴史学者は,ルイセンコの支配の確立を可能にした政治的,社会的,文化的および科学的な背景について研究を行ってきた。しかしながら,ルイセンコの失脚後の状況,特に生物学分野を正常化するためのソビエトの努力はほとんど注目されてこなかった。本論文では,ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(RSFSR)を例に用いて,特に生物学教育の状況について調べた。1965年1月にルイセンコが失脚した直後に,いくつかの重要な初期の運動が,高等学校だけでなく,大学や高等教育機関の生物学コースの改革を目指した。しかしながら,この改革により,教え方の現実的な問題に取り組んでいる,より本質的には,新しい生物学コース,特に遺伝学を教えるべき生物学教師の間に混乱が起こった。クイビシェフ市の例から,1965年以降,ロシアにはこれらの問題に取り組むための十分な人材がおらず,すなわち経験豊富な遺伝学の教師が足りなかったため,専攻科目が遺伝学にわずかに関係している教師が新しい遺伝学の教師として教えていたことが示された。(翻訳著者抄録)
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科学技術教育 
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