抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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“銀座通り”は銀座の幹線通りとして知られ,“中央通り”の一部分である:新橋と上野を結ぶ通り。明治時代の銀座煉瓦ビル街以来長い歴史がある。そして近代的な都市空間は,この歴史において近代的な建物と都市デザインによって形成された。銀座は多くの分野における研究に供されてきた。る。これらの研究において,戦争の損害により引き起こされた都市開発の歴史におけるextinction が示される。しかしながら,銀座通り沿いの店の所有者による都市デザインの運動を目的に戦前から戦後までの連続性があることが検討される。彼らは銀座通りの将来ビジョンをつくるため何をすべきか長い間,主張し続けた。そこで,銀座通り連合会に注意を払う:商店連合会は銀座通り沿いの商店の所有者から構成されてきた。1930年代から1960年代にかけての都市デザイン運動の歴史を示す。この研究によって銀座の歴史の新しい文脈を見つけ出す。1930年代に,銀座通り連合会は銀座通りの都市美運動を開始させた,そしてその目標設定は1940年の東京オリンピックまでそれを達成することだった。この運動の主たる目的は,電信柱の撤去と路面電車の廃止だった,そしてかれらは市政府に訴えた。1936年に,銀座通り連合会はNihon Toshifukei Kyokaiと運動を発展させた,そして彼らは路面電車の廃止に向け騒音調査を行った。1937年に,彼らは都市美のための長期計画として 銀座通りの再構築のため10年計画を立てた。しかしながらこの運動は,1938年以降,連合会が戦時体制に入ったので失敗に終わった。1945年に,銀座通り連合会は銀座再建計画を立てた。この計画において1930年代の運動の目的は継承された,建物は空襲で全焼させられた状態の下ではあったが。そして運動の目的は支えられた:1958年の銀座通りの再建計画における電信柱の撤去と路面電車の廃止。彼らは市政府に請願を繰り返した。彼らは銀座通りの再建のため東京国道事務所に相談した。その結果,彼らは1968年に電信柱の撤去,路面電車の廃止及び新しい舗装の建設を達成した。この運動と並行して,彼らは銀座通りで大規模なフェスティバルを計画した。彼らは銀座通りを祝祭空間として議論を続けた。そして再建された銀座通りで“大銀座祭り”が開かれた。結びに,戦前から戦後にかけて,都市デザイン運動を目的にした連続性があったことが明らかになった。殊に3つのテーマ:電信柱の撤去,路面電車の廃止及び新しい舗装が見いだされた。他方,街路樹についての議論は,銀座通り連合会の歴史においては明確な方向性は決められなかった。上記から,1960年代の銀座通りの建設は,戦前から長い間運動の究極の目標としての価値があったことを検討した。(翻訳著者抄録)