抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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本研究では,「芸妓」と「娼妓」が働いている大分県別府温泉の社会的関係と空間構成について調査した。本研究は,主に旧浜脇村とと旧別府村における「娼妓」と「貸座敷」-公認娼婦宿,その雇用者そしてその建築物-に焦点を絞った。別府村と浜脇村の両方で「芸妓」または「遊女」事業を行っている人々が,現代の初期にはあった。それらは,豊後,瀬戸内,および大阪のような広大な地域にわたって広がるネットワークを持っていた。1890年頃まで,「貸座敷」の主な事業地域は,19世紀の中頃に発達・定着が始まった別府村を走る流川に沿って配置されていた。この地域は,最初は低湿地であり,温泉ホテルを経営する,村における最大家系の一族である日名子家によって開発された。1890年頃の事業と現代の早期における事業は,共通するいくつかの事項を持っていた。それらは,両方とも「芸妓」と「娼妓」の両方を雇い,それらはまた温泉ホテルを経営していた。これらの共通の特徴から,「貸座敷」事業一族は,前近世から「芸妓屋」の事業を行っていた可能性を示唆している。明治期の終わりまでに「貸座敷」事業は流川地域よりも浜脇村で盛んになった。本論文は,この変化が出来事によって生じることを指摘した。それは,1900年における豊州電気鉄道の開通であり,温泉施設の近代化,施設の改修,および開発に関連した不動産取引に関するものである。浜脇町の海岸にあった入江町には,埋立地に「貸座敷」が増え,地域のユニークな土地所有システムがあった。町以外の他の場所の土地は,一般的に少数の「在地地主」-地域の有名不動産所有者ーによって所有されていたが,それぞれの「貸座敷」の雇用者が入江町の「底地」-建物の建っている土地-と「鉱泉地」-温泉の水源地ーを所有していた。本論では,浜脇村の「貸座敷」所有者と近代のホテル所有者に共通の特徴を指摘した。「貸座敷」の所有者は,町の古くからの住民と移民で構成されている。その比率は,この時期に急速に成長するホテル所有者に似ている。明治期の終わりに働く「芸妓」と「娼妓」は,主に大分,宮崎,瀬戸内や大阪の一部の地域から来たものであった。この地理的傾向は,現代の初期における「芸妓屋」のネットワークと類似している。これらの研究に加えて,本論文では,浜脇町と入江町における建物の類型について述べた。浜脇においては,「貸座敷」建物は妻入りー入口が屋根の端部に平行な軸に建設される-であり,その壁は伝統住宅に類似した石灰石膏により仕上げられていた。一方,入江町の建物は他のタイプの建物にその起源を有していた。この違いは「貸座敷」地域の新しさによるものである。そして,本研究では大正期以降の「貸座敷」と「芸妓」との間の主な事業面積の差を指摘した。「貸座敷」は浜脇で実施され,「芸妓」関連事業別府の流川近辺で実施されている。(翻訳著者抄録)