抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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早川家住宅は,農村邸宅であり,岐阜県における優れた近代和風建築住宅である。農村邸宅の当主の多くは,実業家や大商人との交流を有していた。彼らは,高度に洗練され,知的で,また,茶道の宗匠であった。さらに,建築家がその職能を獲得する前には,大工よりも,一族の当主が,主に計画され,デザインされた邸宅の建築に関する深い洞察と直感を有していた。早川家住宅で保存された,多くの歴史的材料がある。それらは,住宅を建設する場合の当主の役割を詳細に記述している。また,早川家住宅の多くの建物は,1891年に発生した濃尾地震によって激しく損傷を受け,地震直後に再建された。再建に関する地震対策の以下の詳細が確認され得る。即ち,1)地下水位は現在の地下水位より2.4m低い。40の穴が地下水位において掘られた。各穴において,9~10本の松柱を基礎として設置した。柱の直径は15cmで長さは約3mである。2)座敷における細い柱の関係は,内法貫により弱くなり,大工の棟梁は,柱と丸い鉄ボルトを持つ内法貫との緊結を示唆した。3)「地震梁」と呼ばれる丸太を,ブレースとして天井上に交差させた。4)「床柱」を除いた柱の寸法は全て15cm角以上である。5)滑りから防ぐために特定の継手を基礎に使用し,それは外部から見ることができない。6)棟梁は,筋交いの数が十分であるか否かに関する助言を与えた。7)貫は全て柱に込み栓止めとする。8)柱で使用されるほぞは,1本おきに基礎まで達する。9)梁は継がずに1本物の木材を用いた。10)上記に挙げた歴史的資料により検証できる地震対策に加えて,残存する建築物において桁の隅に火打梁を挿入し,屋根板を斜めに取り付けていることを見ることができる。江戸末期と明治期以来,我が国における建築の近代化とともに,伝統的な木造建築は近代化においても変化し,革新されている。特に,1891年の濃尾地震後に繰返された地震災害から,地震対策は建築家を通して非常に進化した。それらは,従来の建設の弱点を指摘して,解決する計画を考案した。その最初の例の一つとして,濃尾地震からの1年後である,1892年6月に設立された地震防災調査委員会により「木構造住宅の耐震対策に関する指針」が発表され,山形県坂田地域の復興住宅構造の指針として使用されている。さらに,伊藤為吉は,固定建築金物を考案するとともに,筋交いと基礎の必要性を主張し,また「建築雑誌」で発表された論説において,それらの使い方の例を示した。彼は,伝統的な木造軸組み構造には4つの欠陥があることを説明したがそれは,1.屋根の重量が重すぎること。2.柱が孤立していること。3.構造が,継手と仕口のために切欠きされていること。4.貫と楔による結合が一時的であること。である。濃尾地震後におけるこれらの環境下において,早川周造は地震被害を独自に分析し,そして再建時には,地震対策として基礎工法や木造軸組構造を導入した。彼の先駆的な働きは称賛に値する。(翻訳著者抄録)