抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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本論文では,これまでに未利用の記録文書の情報源を用いて,チェコ生まれのユダヤ人物理学者であるFritz Duschinsky(1907~1942)の生涯を再検討した。彼はガラス職人の息子としてGablonzで生まれた。PragueとSorbonneで物理学を研究した後に,Peter Pringsheimが実験物理学の教授であったBerlinに移り,ルミネセンスを研究した。ナトリウム蒸気の蛍光寿命に関して1932年に博士号を取得し,蛍光寿命測定のための蛍光計の作動原理を数学的に定式化した。1933年1月から,Kaiser Wilhelm物理学研究所で働いたが,ヒットラーが権力の座に着いた後,4月に辞めた。それから,Pringsheimの個人助手としてBrusselsに移り,ヨウ素蒸気の蛍光スペクトルを研究した。1935年にSergei Vavilovが彼をUSSRに招待し,次の4月からLeningradにある国立光学研究所で研究を始めた。彼はTerrin教授と共に多原子分子の光化学を研究し,基準座標の線形変換に関して,独創的な研究を発表し,これはその後,1937年にDuschinsky効果として知られるようになった。残念なことに,彼はテロの年にLeningradを離れなければならず,故郷に戻った。1942年に,彼はパリ近くで逮捕され,Auschwitzで死亡した。Duschinsky効果は3原子分子の振電スペクトルの解析において1950年代にCoonによって再発見され,吸収スペクトルと蛍光スペクトルの間の非対称性における寄与が実験的に確認された後,1960年代後半にSmallによって名付けられた。(翻訳著者抄録)