抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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本研究の目的は,将来の都市形成における歴史的継続性に寄与するために,空間解析によって地蔵の位置の特性を明らかにすることである。本論文では,歴史的な資料からの前近代時代の京都における地蔵の基本的な配置構成を明らかにし,基本的な配置構成は街路と交差領域での配置であることを明らかにした。さらに,政府方針に従う地域自治体である町ごとに描かれた,町絵図から追跡できる50例について,現在と前近代時代における地蔵の位置の比較検証及び2014年に実施した面接調査によって,地蔵の位置の変化とその要因を検証した。本研究の結果は以下の通りである。江戸時代中期には,神社ではない交差道路上の木製門の傍に地蔵を設置した。19世紀においては,地蔵は神社に配置され,この基本的な配置構成は,現代初期まで変化しなかった。この配置構成は,町単位の地域の境界には由来しなかったが,街路への配置であり,地蔵は境界地域よりもむしろ交差領域に置かれていた。地蔵への信仰を止めるという政府命令は,街路から地蔵を除去し,それらを販売し,小学校に金銭を提供するとして,1871年に公布された。この政令に従って,ほとんどの地蔵が街路から除去されたと言われている。このような状況の下で,この政令によって影響された地蔵の位置には3つのパターンがあり,廃棄,他の場所への移動,同じ場所での設置であった。配置替えの例が82%を占めた。政令公布の前の状態と比較すると,交差領域配置の事例は広く減少したが,政令の前に存在しなかった中間領域配置の事例が発生した。地蔵の大部分は街路に置かれていたが,現在,地蔵の大部分は私有地や,公有地例えば街路や,寺のような半私有地に置かれている。前近代時代には,道路上に共有物を置くことが可能であり,街路に共有空間の性格があった。このような地蔵の位置の変化を通して,公的ー私的限界が明らかになったので,街路の共有性が失われたという現実が明らかになった。現代初期における地蔵の位置の変化の主な要因は,政令によるものであり,政令公布後は主要な要因が土地利用変化(建築物解体,土地取引,建て直し)に変わり,京都における高い経済成長期間における都市再開発の一部として,道路拡張がもう一つの要因であると明らかにした。この公的ー私的限界の微小な再調整は,地蔵の位置の変化についてはほとんど影響がないと考えられる。また,交差領域位置から中間領域位置への変化を引き起こす要因の一部は,1990年代以降の街路位置から開放空間位置への変化に依存することを指摘した。(翻訳著者抄録)