抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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本稿は,ル・コルビジエが工業化の効果の実現に目覚め,自分自身の仕事を通して社会の意識を広げる努力を行なっていた,1910年から1920年代の間の期間について議論する。既に以前の研究を通して知られているが,彼は,積極的にアメリカからヨーロッパへと渡った,労働の最適化と大量生産の体系化の効果に気づいていた。それに応じて,彼は,工場計画と住宅モデルのための建設方法の提案に関して,それらのアイデアを実践した,しかし,彼の独自の建設方法に戻るために,それと自分自身に距離を取った。そして,本論では,建築家として,また,この新工業化社会における彼の立場として,彼が認識した社会的責任について新しい解釈を与えるものである。筆者は,前述の期間において,彼のプロジェクトにおける労働者の生活状況を正常化するための,彼のたゆみない努力に光を当てる。工業化とル・コルビジエの関係の背景として,フランスで根を持つ2つの主要なアイデアの影響がある。第1次世界大戦後の1918年に,労働者数と大量生産ラインの確保がフランスにおける主要な課題であった。それは,F.W.Taylor(1856~1915)による「科学的管理の原則」が1911年にアメリカで発表され,1912年にフランスに翻訳された時代であった。また,彼は,作業過程の科学的アプローチと生産産業に関する労働の管理システムに関する,再調査のこれらの方法を読んだ。従来の方法は根本的に変化し,新しい人間関係とともに最大効率を実現した。さらに,Claude Henri de Rouvroy,Comte de Saint-Simon(1760-1825)のアイデアと調和した”Saint-Simonianis”は,同じ時期に支持され,彼がこれらの支持者との物理的接触を持ったことを確認した。彼は,将来,技術の発展が進むであろう,社会における生産を管理する重要な役割を担っている実体として,労働者クラスを把握していた。ル・コルッビジエは労働者に向けた2種類の計画;工場と住居の計画を実際に実施しており,本論では住宅に関する分析を実施した。第1に,居室として機能した部屋に付けた10の表記の1つである,Salle Communeに焦点を当てた。1922年から,Salle Communeの文字表現は使用されず,それはSalle(英語でRoom)として知られる,早期段階から使用された文字表現で統一されたが,1945年のUnite d’habbitationで再び出現した。「共通室」と「独立自己支配体」の意味から離れていることが分かった。上記の通り,彼は,建物内部に形成された社会コミュニティの部屋としてSalle Communeを配置し,同時に,この定義が労働者の住居としてフィードバックし,彼の計画で書かれた表現を持つことが示された。彼は,生産産業に飽きた労働者達が 独立した社会コミュニティを形成することを示した。本論の結論は,Taylor主義とSaint-Simon主義を含むSalle Communeの考え方というル・コルビジエの思考である。彼は,労働者の人格権利を尊重することを通した。(翻訳著者抄録)