抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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本研究の目的は,特に近代から今日までの地蔵と地蔵盆に関する新聞記事と写真を分析することにより,京都の地蔵の位置の特徴を明らかにすることである。本論文では,地蔵を通して社会問題によって出現した地蔵の社会的位置の変化を明らかにした。本研究の結果は以下の通りである。道路にある地蔵を除去するための1871年の法令発布以後,地蔵に関する記事の数が増加する4つの期間が以下のようにあった。(1)最初の期間は1887年から1892年までで,地蔵盆祭りの復活が,興味ある出来事として注意を払われた。この期間の後,地蔵と地蔵盆祭りは,法令前のような通常の状況として一般的になった。(2)第2の期間は1929年から1941年までで,地蔵と地蔵盆祭りがより深く,様々な関心の対象であり,日華事変と太平洋戦争の発生の後には,強く影響を受けて,国家権威の強化に利用された。(3)1952年から1958年までの第3期は,地蔵盆祭りが,主に子供による子供のためのお祭りとして,戦争後の民主教育の目的に合致するものとなった。(4)1971年から1984年までの第4期は,最も関心が高く,コミュニティ活動やコミュニティ形成に地蔵盆祭りが必要であることが認識され,そのような認識が確立された。地蔵盆祭りの復活は1881年から報告され,1899年頃に京都市における都市行事として再び確立された。そして,道路環境の変化は,昭和30年代における地蔵盆祭りの位置を移動することに影響した。本研究を通して,道路に面する地蔵の再配置のプロセスは,通常の状況における地蔵の位置が,1892年頃にいくつかの町で見られ,それらが1900年頃に街路に直面している店舗の軒下に位置することを明らかにした。昭和初期以前に,そのような位置は一般的になった。新聞写真を通して分析すると,地蔵盆祭りの屋外での位置は,道路から通路,屋上,寺院,公園または小学校,そして屋内では住宅や寺院の内部空間に変化した。そして,祭りの道具は,長期の設定材料から短期のもので構成されるようになった。これらの変化は,昭和時代の40年代を中心とした30年代から50年代までであり,これらの期間は道路環境の変化の期間と重なっている。(翻訳著者抄録)