抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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東京を襲った1923年の関東大震災は日本史上最大規模の災害の1つであった。都市のほとんど半分は火災によって破壊された。本論文では,”大日本体育協会”,Japan Amateur Athletic Association(JAAA)の建議による政策下で,政府が東京都における新しいスポーツ公園を如何に建設したかについて述べる。知見は以下の通りであった。1)関東大震災後,JAAAは理事会を開き,帝都復興院総裁と東京市長の双方に提案した。それは市民の身体強度と精神的健康を育成するために東京の災害地に新しいスポーツ公園を建設する政府への要請であった。2)政府は公式に提案を受け,3つの新しい公園(1928年に錦糸公園,1929年に浜町公園,1931年に隅田公園)を建設した。各公園に競技場,テニスコース,水泳プールなど様々なスポーツ施設を設置した。特にプールは会社員のために夜間照明システムを設置し,女性のみに特定時間を設けた。3)特に,隅田公園では一般市民のために様々なイベントを開催した。これらは市職員家族慰安スポーツ日,公共ラジオ体操,歌舞伎役者による野球リーグなどであった。東京都発行記念誌では,本公園は”下町のオリンピア”と呼ばれていた。1920年代,日本の初期スポーツ史では,スポーツ公園は震災後にJAAAの提言により整備された。これらの3公園はまだ存続し,戦後日本におけるスポーツ振興を支えている。(翻訳著者抄録)