抄録/ポイント:
抄録/ポイント
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本論では,18世紀後期に建設された藤間家住宅の分析と,藤間家の歴史における現存する歴史資料の分析により,前近代の春日大社の社家町(門前町)の都市景観と居住形式の推移を明らかにすることを試みた。特に,江戸時代の社家町における祢宜(下級神官)の居住形式の形成プロセスを調べ,1717年の高畑の大火の前後における差異に注意を払った。内容は次の通りである。序 1.明治時代初期における社家町の空間構成と居住形式。春日大社の組織は,社家(上級)と祢宜(下級)と呼ばれる神官の2階層によって構成されていた。彼らは,北と南の集落に分かれて住んでいた。北(野田)は衰退し,南(高畑)は江戸時代に発達し,1872年に21の社家と93の祢宜一族が高畑に住んでいた。祢宜の住宅が,主街路の両側に沿って並んでいた。短冊型地割(細長い土地の繋がり)のそれらの住居地を,3種の前面寸法(狭三間,中五間,広七間)に分類した。中間と広いタイプが,それらの住居地の大部分を占めた。2.前近代の社家町とその居住形式における変化過程。1698年に,30の社家と205の祢宜家族(1872年の2倍)が高畑に住み,彼らは住居を所有しなかったが,多くの祢宜家族が賃借りしていた。祢宜一族は,排他的に宗教的なサービスを行うだけでなく,都市の一般人のように芸人,工芸家および商人として働いていた。したがって,祢宜の居住形式は,町家(一般的人々の伝統的住宅)と類似していた。社家町の半数は1717年の高畑大火で消失した。持ち家または財産のない小祢宜家族が大半で,大きな前面幅の新しい住宅地が1717年の大火後に,狭い住宅地を統合することによって増加し,社家町として威厳を有する新しい都市景観が,街路に沿った土壁と前門の広い前面の繋がりによって再構築された。3.禰宜であった藤間家住宅の建築的特徴とその再建研究。藤間家住宅は,その北側に薬居門を有する築地塀(屋根を有する土壁)によって囲まれ,そして,母屋は大きな切妻屋根と式台(正式な入口)を持っている。これらの特徴は,影響力のある祢宜一族の高い格式を示した。再建研究によれば,藤間家の住宅は18世紀後期に建設され,土間通路を持つ2列×3室平面計画で,元は低通路型座敷(2室)を接続する1列×3室平面計画であった。それは18世紀後期に奈良町の古い町家と似ている。このように,祢宜家族の住宅は,祢宜家族の減少と1717年の高畑大火後の住宅地の統合によって,町家形式から開発されたことは注目に値する。結論。(翻訳著者抄録)